雑記ブログ。あと自論。名前はまだない。

気がついたら論語を読んだ感想がメインのブログになってしまいました。そのうち何とかします。後、下らない小話的自作小説も書いていますのでお時間があれば是非!

SS小説「書き置き」

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 あなたは、誰よりも優しい人だった。

 誰よりも優れた夫であり、誰よりも優しい父親だった。

 でも、あなたには心がなかった。

 私は、もうたえられない。

 さようなら。

 

 短い文章だった。

 加太は、佐土原から渡された書き置きを一瞥して、すぐにずっとテーブルでうなだれたままの佐土原の前に置いた。

「……私の妻と子供は、この書き置きだけを残して姿を消しました。」

「まあ、だろうな。」

 加太は、コーヒーメーカーから二人分のコーヒーを注ぎ、そのひとつを佐土原の前に置いた。

 夕方から降り出した雨は、夜中になって激しい雨音を立てて人里離れた加太の屋敷を叩いた。

「博士、教えてください。私には一体何が足りなかったのですか? 彼女の言う心とは何なのですか?」

「それはまだ、人類には難しい問題だな」

 と言って加太は、コーヒーを一口啜った。

「それにしても……」

 加太は、佐土原の恰好を、頭のてっぺんから足のつま先まで、まじまじと眺めてから言った。

「君は今日、出かける前に自分の姿を鏡でチェックしてきたのかい? 君らしくもない。酷い様だよ?」

 いつも毛先まで几帳面にセットされている髪も、今日は雨に濡れてボサボサだ。身だしなみもいい加減で、Yシャツの裾の片方がズボンからはみ出している。それに、どこかで大量に酒を飲んでいたのだろう。ここまで車で来たはずだというのに、ひどく酒臭い。

 靴だって左右で別々のものだ。

「今はとても博士の軽口に付き合う気にはなりません。」

 そう言う佐土原の呼吸は、まるで激しい運動の後のように短く、動悸は荒かった。そのくせ、顔からは血の気がすっかり引いて真っ青で、まるで生気というものが感じられない。今の彼を死から蘇ったゾンビだと紹介しても、ひょっとしたら何人かは信じるかもしれない。

 こんなに落ち着かない彼ははじめて見る。これは相当重症だ。

「私は今まで、妻にも子供にも苦労をかけたことなどなかった。私は、家庭も仕事も完璧だった。だから彼女たちは幸せだったハズなんです。幸せでなければいけないハズなんです……」

 そう言って佐土原は頭を掻きむしった。

 佐土原がここまで取り乱すのも無理はない。彼にとって、恐らく人生初めての挫折なのであろうから……。

 加太は、コーヒーを一口啜ってから言った。

「君は、私がつくり出した最高の人工知能だ。」

 佐土原は何も応えなかったが、加太は佐土原の返事を待たずに続けた。

「君に与えた命令はただ一つ、“自由”だ。勿論、君も知っての通り、君の存在はロボット三原則を完全に逸脱した重大な犯罪行為だ。君の正体が世間に判明すれば、私は極刑に処せられ、君は処分されるだろう。だが、私はどうしても知りたかった。もし世界最高の人工知能に自由を与えたなら、その時人工知能は何を考え、そして何を望むのか、私はどうしても知りたかった。そして君が生まれた。」

 屋敷の外で雷が何度か鳴り響いた後、また激しい雨音が室内を満たした。

「そして君は、君にとって最も不可解な存在であった人間に、自らがなることを望んだ。だから私は君に人間の体を与えた。」

 博士は飲み終えたコーヒーカップを、テーブルの上に置いた。

「私には妻も子供もいない。友人だって少ない。私は人間関係というものがどうにも煩わしく感じられてね。自分の研究に没頭している方が性に合っている。だから、夫婦の問題について、私からなにか君に適切なアドバイスをするなんていう気の利いたことを期待してもらっても困る。だが……」

 佐土原は、うなだれたまま黙って加太の話を聞いていた。

「だが、君は憶えているかな? 私は君に“自由”を与えたはずだ。何処に行って良い、何をしても良い自由を私は君に与えたはずだ。そして君はここに来た。人間としての心のあり方を私に尋ねるために。だが、それ以外の自由も、実は君は持っていたのではないか?」

 佐土原は顔を上げて加太を見た。その顔は、涙で目が腫れて見るに堪えないものだった。

「例えば、すぐに君が愛しているであろう彼女と子供の行方を捜して、その後を追うことも君であれば可能だったはずだ。そして、どこにも行かないでくれと彼女を強く抱きしめる自由だって、私は本来、君に与えていたはずだったんだがね?」

 加太の話に佐土原はハッとした顔をする。でもすぐに底なしの暗闇の中に突き落とされたような暗黒が、彼の顔を覆った。

 佐土原は、ヨロヨロと椅子から立ち上がると、乗ってきた車も置き去りにして加太の前から姿を消した。

 そして加太は、二度と佐土原の姿を見ることはなかった。