雑記ブログ。あと自論。名前はまだない。

気がついたら論語を読んだ感想がメインのブログになってしまいました。そのうち何とかします。後、下らない小話的自作小説も書いていますのでお時間があれば是非!

『阿久悠 作詞家憲法』について考える。

f:id:nakatico:20170314082103j:plain

 

 先日、撮りためておいたビデオで観た「ザ・プロファイラー ~夢と野望の人生~」の阿久悠さんの回で紹介されていた『阿久悠 作詞家憲法』が面白かったので、全文を紹介させてもらいます。

 

阿久悠 作詞家憲法

  1.  美空ひばりによって完成したと思える流行歌の本道と、違う道はないものであろうか。
  2. 日本人の情念、あるいは精神性は「怨」と「自虐」だけなのだろうか。
  3. そろそろ都市型の生活の中での人間関係に目を向けてもいいのではないか。
  4. それは同時に歌的世界と歌的人間像との決別を意味することにならないか。
  5. 個人と個人の実にささやかな出来事を描きながら、同時に社会へのメッセージとすることは不可能か。
  6. 「女」として描かれている流行歌を「女性」に書きかえられないか。
  7. 電信の整備、交通の発達、自動車社会、住宅の洋風化、食生活の変化、生活様式の近代化と、情緒はどういう関わりを持つだろうか。
  8. 人間の表情、しぐさ、習癖は不変であろうか。時代によって全くしなくなったものもあるのではないか。
  9. 歌手をかたりべの役からドラマの主人公に役変えすることも必要ではないか。
  10. それは歌手のアップですべてが表現されるのではなく、歌手もまた大きな空間の中に入れ込む手法で、そこまでのイメージを要求していいのではないか
  11. 「どうせ」と「しょせん」を排しても、歌は成立するのではないか。
  12. 七・五調の他にも、音的快感を感じさせる言葉数があるのではなかろうか。
  13. 歌にならないものは何もない。たとえば一篇の小説、一本の映画、一回の演説、一周の遊園地、これと同じボリュームを四分間に盛ることも可能ではないか。
  14. 時代というものは、見えるようで見えない。しかし時代に正対していると、その時代特有のものが何であるか見えるのではなかろうか。
  15. 歌は時代とのキャッチボール。時代の飢餓感に命中することがヒットではなかろうか

 

  阿久悠さんは作詞家として活動しはじめて3年後の1970年ごろにこの憲法を作ったそうです。

 面白いのが憲法のほぼ全てが「~なかろうか」「~ではないか」という言葉でおわっている。これは多分、それまでの日本の歌謡曲というのがこの憲法の最後を「~である」と言い換えたようなものしかなかったんだと思います。

 

「人生の哀愁」とか「情事の縺れ」とか、どこかダーティーな大人の世界をシットリと歌い上げるのが一条でいわれている「本道」だったんでしょう。

 

 というか、そういうものしかなかった。売れなかったんでしょうね。( ̄∇ ̄)

 

 それに対して阿久悠さんは疑問を投げかけた。「本当にそれしかないのか?」「もっと新しい時代が求める。新しい流行歌のあり方があってもいいんじゃないか?」と。

 

 阿久悠さんは、自分の感性だけを信じて、全く何も手探りのまま時代に挑んだ。

 そして一時代を築いた。

 

 この憲法の内容には今でも大いに学ぶところを感じます。

 

 そして、これほどの大人物であってもまた、時代の潮流に否応なく飲み込まれてしまう。そこにもまた大いに学ぶところがある。

 

 この憲法からは、そんな色々なことを考えされられます。

 

阿久悠に関連する商品:

作詞入門―阿久式ヒット・ソングの技法 (岩波現代文庫)

作詞入門―阿久式ヒット・ソングの技法 (岩波現代文庫)

 
「企み」の仕事術 [ロング新書]

「企み」の仕事術 [ロング新書]